モロッコの旅の中でも、最も印象深い街を挙げるとすれば、やはりフェズであろう。
この街については、以前ある席で耳にした、羽田孜元首相の言葉が忘れられない。
「カサブランカは東京と変わらない。フェズを見なさい。あそこがモロッコだよ」
その言葉に導かれるように、後日フェズを訪れることになった。
フェズは旧市街と新市街に分かれているが、圧倒的な存在感を放つのは旧市街である。
その旧市街は、紀元9世紀に形成されたといわれ、世界でも類を見ない迷宮のような街である。案内人なしではとても歩けない。道は極端に狭く、車は一切入ることができず、荷物の運搬はロバが担っている。
所によっては、道幅が人の肩幅ほどしかない場所もある。
あまり適切な例えではないかもしれないが、築地の魚河岸の狭い通りが、無秩序に際限なく続いているような印象である。
その迷路のような街並みの中に、今も人々の生活が息づいている。
フェズの旧市街には、800ものモスクがあるともいわれる。
旅人がこの街に案内されると、必ずと言ってよいほど訪れる場所が二つある。
一つは、モロッコを代表する職人の工房である。
フェズでは陶器やタイル作りが盛んで、職人たちは長い年月受け継がれてきた技を、いまも手作業で守り続けている。
その作業は、まさに感と手先だけに支えられた世界であり、見ているうちに時間の感覚を忘れてしまうほどである。
もう一つは、タンネリと呼ばれるなめし革の工房である。
そこでは巨大な染料の桶が並び、職人たちがその中で皮を染める作業を続けている。
強い匂いのため、案内人からはミントの小さな束が手渡される。鼻の近くに当てると、独特の匂いが和らぐ。
カメのように並ぶ染料の桶の中で、人々が皮と向き合う光景は、まさに圧巻である。
その周囲では、革製品が所狭しと並び、バッグや靴、スツールなどが売られている。
あるとき友人が、見事な皮のコートを購入した。最初の言い値は10万円ほどであったが、20分ほどの交渉の末、3万円で成立したという。
バブーシュと呼ばれる革のスリッパも同様で、日本では数千円するものが、交渉次第で大きく値が変わる。
こうしたやり取りも、この街の旅の一つの楽しみである。
新市街は13世紀頃に整備された地区で、広大な王宮やユダヤ人街もある。通りにはコウノトリが巣を作っており、その姿をカメラに収める旅行者も多い。
フェズは、古さと暮らしがそのまま共存している街である。
迷宮のような旧市街を歩いていると、単なる観光地ではなく、そこに生きる人々の時間そのものに入り込んだような感覚になる。
そしてそれこそが、フェズが「モロッコそのもの」と言われる理由なのかもしれない。

